幻の米本土空襲計画 中島知久平が考案のZ飛行機超大型重爆撃機「富嶽」

爆撃機

こんにちは。

今日は少し話題を変えてみようかなと思います。

かつて日本が戦争に負けそうな時、アメリカ本土を爆撃する計画があったのはみなさんご存知でしょうか?

現在の自動車メーカーSUBARU中島飛行機と呼ばれていた時代まで遡ります。

今日はそんな幻の米本土爆撃計画を紹介していきます。

目次

誰によって、なぜ発案されたのか

まずこの計画は中島飛行機の創始者である中島知久平が発案した。

中島知久平が立案した「必勝防空計画」に書かれている「Z飛行機」がのちの富嶽である。

この富嶽を中心として、アメリカ本土を爆撃、そのままドイツまで飛び補給を受け、逆のコースで日本に戻ってくるという壮大な計画であった。ソ連を爆撃して世界一周して戻ってくる案もあった。

計画が立案されたのは1942年(昭和17年)である。この年はアメリカ軍による初の日本本土空襲があった年である。

中島は1943年(昭和18年)、軍令部官邸での夕食会で富嶽の構想を説明する。

この時中島は、アメリカ軍が昭和20年にはB-29を配備し、日本の軍需工場目掛けて爆撃してくることを説明した。

それを防ぐには、B-29が飛ぶ前に飛行場爆撃する必要があるとも説明した。

当時はミッドウェー海戦で海軍が敗れ、ガダルカナル島から撤退など日本に不穏な空気が流れていた時期でもあった。

そんな中、中島飛行機を中心として富嶽の設計が始まった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/中島知久平

設計〜開発中止まで 多くの問題が発生

陸海軍共同の計画委員会によって計画が承認され、軍需省が加わった体制で開発が進められた。

しかし、陸海軍で要求性能が大幅に異なったため、調整に時間がかかり、軍需省は途中で川西航空機に設計案を作らせるという開発体制に多くの問題が出てしまった。

また、当時の日本の技術力・工業力では実現まで解決しなければいけない問題が山積みであった。

与圧キャビンの研究、新式降着装置の開発も行われた。

1943年(昭和18年)より中島飛行機三鷹研究所構内に組み立て工場の建設が開始された。

翌年1944年(昭和19年)日本軍は、陸海軍当事者、軍需省、関係会社を集めて富嶽の研究を続行するか検討した。

富嶽を予定通り生産した場合、他の主要戦闘機・主要爆撃機の減産を招く見通しとなった。

資材、工作機械、研究技術の観点から富嶽の研究・開発は中止せざるを得ないとの結論に至った。

同年には、サイパン島陥落の責任を取り、最大の支援者であった東條英機首相が辞職した。

本土防空戦の戦闘機開発・生産を優先するため富嶽の研究・開発は正式に中止となった。

https://www.suginamigaku.org/2017/11/h-memory-nakajima-hikoki.html

米本土爆撃の予定だった幻の超大型重爆撃機「富嶽」

研究・開発が中止になり、そのまま日本は降伏したため幻の飛行機となってしまいました。

計画は以下の通り。

  • 全長:46.00m
  • 全幅:63.00m
  • 全高:8.80m
  • 主翼面積:330.00m
  • 発動機:中島ハ54空冷式4列星型36気筒(ハ219複列型18気筒を2台串型置)6,000馬力(3725kW)6発
  • プロペラ:VDM定速6翅・8翅・二重反転4翅(この中のいずれか)
  • プロペラ直径:4.5-4.8m
  • 自重:42t
  • 全装備重量:122t
  • 最大速度:780km/h(高度10,000m)
  • 実用上昇限度:15,000m以上
  • 航続距離:19,400km以上
  • 武装:20mm機関砲×4門
  • 爆弾搭載量:最大20t
  • 航空魚雷:20本

ちなみに日本を苦しめたアメリカ軍のB-29ですが、下にまとめてみました。

  • 全長:30.18m
  • 全幅:43.04m
  • 全高:8.47m
  • 爆弾搭載量:9072kg(最大搭載量)
  • 航続距離:6380km(最大航続距離)

おそらく比較しやすいのはこの数字かなと思います。

B-29よりも巨大な飛行機だったことがわかります。

https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/FUGAKU.html

現実性はあったのか?

陸海軍・軍需省まで巻き込み研究・開発が進められた富嶽。

果たして現実性はあったのか。さまざまな文献を参考に出した結論は、当時の日本の技術力・工業力では無理ということ。

日本軍で活躍した多くの爆撃機・攻撃機は双発機が多いです。

一式陸攻や銀河、九六式陸上攻撃機などが双発機として有名です。

双発機ばかりが有名ですが、日本軍も実はB-29と同じ四発機を研究・開発していました。

しかし、四発機の研究・開発は当時の日本の技術力・工業力では難しく、戦線に出撃した四発機はいませんでした。

この四発機を超える存在が六発機の富嶽。四発機を実用化できないということは六発機はかなり困難であったはず。

また、当時の日本は資源が乏しく、東南アジアに進出して資源が確保できても工場がある本土に届くことは戦況が悪化するにつれて難しくなっていきました。

当時の日本の技術力・工業力、資源などから総合的に判断して当時の日本での富嶽の現実性はかなり低かったと思われます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/連山_(航空機)

まとめ

今日は話題を少し変えてみました。いかがだったでしょうか?

筆者はこの富嶽が大好きです。なんというかロマンの塊という感じがするので…笑

当時の日本にアメリカ本土爆撃の計画があったなんて驚きですよね。

しかもその爆撃機まで計画しているとは恐ろしいですね。

ただ、日本軍はアメリカ本土を爆撃しているのです。(富嶽じゃないですよ笑)

この日本軍によるアメリカ本土爆撃はまた今度機会があったら詳しく書こうかなと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

良い週末を!

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