80年前の1941年12月16日 日本に世界最大最強の戦艦が就役 その名は『大和』

戦艦大和1/10

こんにちは。

今日は、80年前に建造された戦艦『大和』(以下『大和』という)について紹介します。

1941年といえば太平洋戦争が始まった年。

時代が戦艦から飛行機に移り変わろうとしている中で完成した『大和』はどのような運命をたどったのでしょうか。

ぜひご覧ください。

引用:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46302530Z10C19A6AA1P00/

目次

世界最大最強の戦艦『大和』

『大和』は1941年12月16日に就役し、大和型戦艦2番艦の戦艦『武蔵』とともに世界最大最強の戦艦として大日本帝国海軍に君臨していました。

なぜ、『大和』と『武蔵』は世界最大最強の戦艦と呼ばれているのでしょうか?

まずはそこから紹介していきます。

史上最大の46cm砲を9門搭載

46cm砲は日本が発明・開発・製造した世界最大の主砲です。

1921年、ワシントン海軍軍縮条約で日本は戦艦保有数が米英比6割に抑えられたため、艦艇の質で対抗しなければなりませんでした。

その結果生まれたのが、45口径46cm砲でした。

それまでの世界最大の砲である41cm砲を凌駕し、最大射程は約42kmを誇ります。

同世代のアメリカ海軍・イギリス海軍の戦艦と比較してみましょう。

項目大和型戦艦
(日本)
ノースカロライナ級戦艦
(アメリカ)
アイオワ級(アメリカ)キング・ジョージ5世級(イギリス)
主砲45口径
46cm砲
45口径
 40.6cm砲
50口径
40.6cm砲
45口径
35.6cm砲
最大射程
距離
42,026m36,741cm38,679m35,260m
搭載数3連装砲塔
×3基
3連装砲塔
×3基
3連装砲塔
×3基
4連装砲塔×2基
連装砲塔×1基

同世代の戦艦の中でも、最大射程距離が大きく違います。

また、46cm砲に対応した防御を備た戦艦は他国に存在せず、いかなる敵艦艇の防御も貫通しました。

戦後、46cm砲の存在を知った連合国軍関係者は驚いたそうです。

世界最大の基準排水量

世界最大の主砲を搭載していますが、それ以外にも世界最大の項目がありました。

それは基準排水量。基準排水量とは積荷を満載して状態から、燃料と予備水を除いた状態のこと。

『大和』の基準排水量は64,000t。この数字は現在に至るまで世界最大です。

他の船と比較してみましょう。

項目大和型戦艦(日本)アイオワ級(アメリカ)いずも型護衛艦(日本)
基準排水量64,000t48,500t19,500t
満載排水量※72,809t57,450t26,000t
※満載排水量とは、計画上搭載できるもの全てを搭載した状態での排水量

同世代のアメリカ海軍の戦艦『アイオワ』より遥かに排水量が多く、現在の海上自衛隊最大の船『いずも型護衛艦』よりも多いです。

排水量は主に軍艦の大きさを表すのに使われるので、『大和』がどれだけ大きかったかがわかります。

日本の造船技術の高さを示した戦艦

世界最大の主砲・排水量の他、『大和』には当時の日本の最新技術が詰め込まれました。

特徴的なのは艦首にある球状艦首(バルバス・バウ)これは、造波抵抗を打ち消すために設計され、日本海軍の軍艦として初めて装備されました。

他にも、煙突などの蜂の巣構造の装甲、巨大な観測用の測距儀の装備などに、当時の最新技術が使用され名実とともに世界最大最強の戦艦として完成しました。

極秘に設計・開発・建造された戦艦

『大和』の設計・開発・建造は極秘に行われました。

特に46cm砲の搭載は最高軍事機密で、アメリカやイギリスなどに見つからないように設計・開発・建造していました。

また、敗戦時に多くの書類が焼却処分されたため、設計図や『大和』に関する記録、現存写真は他の艦艇に比べて非常に少ないです。

現在の呉市

広島県呉市の様子

『大和』は、広島県呉市の呉海軍工廠で建造が始まりました。当時、呉海軍工廠は東洋一と呼ばれるほど設備が充実していました。

かつて、戦艦『長門』や空母『赤城』が作られた乾ドックは1m掘り下げられ、長さ314m、幅45m、深さ11mになり、『大和』建造用に拡張されました。

ここから、厳重な機密保持が始まります。

造船所を見下ろせるところには板塀が設けられ、ドッグには『大和』の長さがわからないよう半分に屋根が架けられました。

建造に携わる者は、厳重な身辺調査が行われ、自分の担当以外の情報は、必要最低限の情報しか知ることができませんでした。

造船所自体が軍の管制下に置かれ、建造ドック周辺や、ドックを見下ろせる山には憲兵が警備にあたりました。

東洋一の海軍工廠がある街・呉には物々しい雰囲気が漂っていました。

日本国民にも公表されなかった

『大和』の建造は日本国民に公表されませんでした。

そんな中、1940年8月8日に進水式が執り行われました。この進水式も公表されることなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけでした。

その後、『大和』の存在は国民に公表されず、戦後になって一気に知名度が上がりました。

戦艦『大和』の艦歴

大和の艦歴をまとめました。

出来事
1933年(昭和8年)軍令部に建艦計画を検討
1936年(昭和11年)承認
1937年(昭和12年)11月4日【計画名A140F5】は、広島県呉市の呉海軍工廠の第4ドックで起工。
1940年(昭和15年)8月8日進水。艦名を『大和』と発表。
1941年(昭和16年)12月16日就役
1942年(昭和17年)2月12日連合艦隊旗艦となり、山本五十六司令長官が座乗。
          5月29日瀬戸内柱島出港。ミッドウェー海戦に参加。
1943年(昭和18年)12月25日トラック島西方180海里で米潜水艦より攻撃を受ける。3番砲塔右舷に1本被雷。
1944年(昭和19年)6月15日マリアナ沖海戦に参加。
          10月22日レイテ沖海戦に参加。
25日のサマール島沖海戦にて主砲弾104発発射。
駆逐艦ジョンストンを撃沈。
1945年(昭和20年)4月6日沖縄に向けて出撃。
          4月7日米軍航空隊386機の猛攻を受け、沈没

そして、飛行機の時代へ

『大和』の沈没は、長く続いてきた「大艦巨砲主義」の終わりを告げました。

真珠湾攻撃に始まった太平洋戦争は、海での戦い方に大きな変化をもたらしました。

海での戦いの主役が変わったのです。

第二次世界大戦終了後、世界各国の戦い方は航空機主力の「航空主兵論」に変わり、海での戦いの主役は空母と航空機になりました。

2021年現在、戦艦と呼称される艦を運用している国はありません。

戦艦が最後に実戦で使われたのは1991年の湾岸戦争です。このとき使用された戦艦は、『大和』のライバル艦だったアイオワ級の戦艦でした。

まとめ

史上最大の排水量と、史上最大の46cm砲を積み、世界最大最強の戦艦となった大日本帝国海軍の結晶『大和』。

大日本帝国海軍の結晶は、北緯30度43分、東経128度04分の水深345mの地点にひっそりと眠っています。

現在、『大和』の存在は多くの国民に知れ渡っています。2005年には『大和』を主題とした映画が放映されました。

海の底に沈んでいる『大和』ですが、私達の身近なところに、大和の建造技術は使われています。

46cm砲に使われていた特殊車輪技術は、東京都千代田区紀尾井町にある『ホテルニューオータニ東京』にある回転展望レストランに活用されています。

艦首の球状艦首(バルバス・バウ)は現在、世界中で当たり前の装備です。

また、『大和』建造の際に取られたブロック工法は、計画的な生産管理で作業効率が上がるため、トヨタを始め多くの企業で採用されています。

他にも現在につながる多くの技術が『大和』にはありました。

『大和』で使われた技術はこれからも私達の生活を支えてくれるでしょう。

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